(2)-3:平安時代(794~1185)での「くすり文化」に関係する事柄2
【時代考証】平安時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」を基にまとめる。
*(1)「大同類聚楽方」、*(2)「延喜式」、*(3)「医心方」については、第12回報で寄稿済
794年にこれまでに遷都を繰り返した「奈良時代」の長岡京から都が「平安京」に移され、平安時代がスタートした。その後、1185年までの390年余り続くことになる。今回はこの「平安京」を探索して、平安時代を垣間見ることにする。
平安時代とは
平安時代は、桓武天皇がそれまで政治の中心であった平城京(現在の奈良市)から平安京(現在の京都市)に都を移した延暦13年(794)にはじまり鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を指します。□□平安前期は、中央集権的な律令政治を継承したが、人から土地へと新たな支配体制を築いていった。土地の支配が強まる中で国家から土地の支配権を任された貴族層などが代々職を継承し世襲化される中、貴族の最上位では摂関家が確立し、摂関政治が展開しました。11世紀後半からは上皇が政務に当たる院政がはじまり、荘園支配が進みました。徴税に絡んで貴族同士の紛争が頻繁し、武力で解決されるようになると平氏が台頭してきたが、平氏政権の崩壊とともに平安時代は幕を下ろしました。(in羽曳野市教育委員会事務局 世界遺産・文化財総合管理室 文化財課 大阪府羽曳野市誉田4丁目1番1号 電話番号:072-958-1111(代表)ファックス番号:072-947-3633 更新日:2017年03月30日)
(in平安時代~鎌倉時代:東北農政局 – 農林水産省 https://www.maff.go.jp › … › 東北農業の歴史・歴史年表)
「くすり文化」に関係する事柄2
(1)「大同類聚楽方」、(2)「延喜式」、(3)「医心方」については、第12回報で寄稿済(4)「太平恵民和剤局方(たいへいけいみんわざいきょくほう)」について
in将軍のアーカイブズ – 14. 重刻太平恵民和剤局方 – 国立公文書館
14. 重刻太平恵民和剤局方じゅうこくたいへいけいみんわざいきょくほう
『和剤局方』は、中国の宋の皇帝徽宗(きそう)の命で編纂された薬剤の処方集。大観年間(1107-10)に成り、その後何度か増補され版を重ねました。『重刻太平恵民和剤局方』は、明の崇禎10年(1637)に刊行された増補版。脚気・眼病・下痢・便秘・婦人病・小児病ほか、症状ごとに薬とその処方が挙げられています。□□享保8年(1723)8月8日、書物方は、側衆の有馬兵庫頭を通じて『和剤局方』など3部の医書を将軍に「差上」げるよう命じられ、坊主衆を介して届けました。展示資料が、このとき吉宗が命じた本と思われます。□□本書は享保12年(1727)2月19日にようやく返却されますが、吉宗はどのような理由で長期間借り出したのでしょうか。医療の向上に関心が深かった吉宗は、庶民の医療を改善するために本書の官刻(幕府が出版すること)を計画し、みずから閲覧すると同時に幕府の医師たちに校合させるため、本書を借り出したものと思われます。□□官版『増広太平恵民和剤局方』は、享保17年(1732)に出版されました。全8冊。紅葉山文庫旧蔵。
(請求番号:子040-0001)
in和剤局方 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 和剤局方
和剤局方(わざいきょくほう)(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
『和剤局方』(わざいきょくほう、拼音: Héjì Júfāng)は、大観年間(1107年 – 1110年)に国家機関の関与のもと中国にて発行された医薬品の処方集の名称。□□その後の増補版である1151年発行の『太平恵民和剤局方』(たいへいけいみんわざいきょくほう、拼音: Tàipíng Huìmín Héjì Júfāng)を指す場合もある。
目次:1概要 2歴史 2.1初版 2.2太平恵民局 3脚注 4関連項目
概要[編集]
『和剤局方』は、北宋代、大観年間に初版が編纂された全5巻、297処方を収めた医薬品の処方集であり、当時の国定薬局方でもある。その後増補が繰り返され、紹興年間(1131年 – 1162年)の1151年に改名して『太平恵民和剤局方』が全10巻、788処方として発行されているが、日本において“和剤局方”という場合、『太平恵民和剤局方』を指す場合がある。これは、享保17年(1732年)当時の“和剤局方”である『太平恵民和剤局方』をもとに、江戸幕府が今大路親顕らに校刻させたものを官本として刊行したためである[1]。
北宋の大観年間(1107年 – 1110年)に政府が裴宋元や陳師文らに命じて、首都の開封にある官営の薬局用の製剤規範として初版の『和剤局方』を編纂させたとされている[2]。初版の書物は全5巻、297の処方が収められた。なお、初版成立の年代としては、崇寧年間(1102年 – 1106年)とする説もある[3]。その後、何度も改訂が重ねられるたびに処方も増補され逐次内容が豊富になっていった。
太平恵民局[編集]
首都開封の太医院には、薬局の機能として、処方を製剤する「修合薬所」と販売する「売薬所」が設けられていた。「修合薬所」は、初版の『和剤局方』が発行される前の崇寧2年(1103年)には「和剤局」と改称されていた。更に紹興年間には、「売薬所」が「太平恵民局」と改称された[3][4]。この紹興年間に“和剤局方”も改名され『太平恵民和剤局方』として発行された。『太平恵民和剤局方』は全10巻、用薬指南3巻が附属され、788処方を収載して、処方ごとの主治とする症と原料生薬の調整法や配合分量を含む薬物調整法について詳しく説明されており、方剤の統一を目的としている[3]。
その後も宝慶年間(1225年 – 1227年)、淳祐年間(1241年 – 1252年)に増補され発行されている[1][3]。
脚注[編集]
^ a b 鈴木達彦 「『幼幼新書』、『三因方』、『簡易方』等引用する『和剤局方』の実像」『薬史学雑誌』 42巻2号、2007年、103-109頁。
^ 北京中医学院主編 『中国医学史講義』 夏三郎訳、1974年、108頁。
^ a b c d 長沢元夫 「和剤局方と薬局方に関する考察」『薬史学雑誌』 1981年、16巻、2号、39-43頁。
^ 「太平恵民局」への改称は、崇寧2年(1103年)との説(葉顕純 「≪太平恵民和剤局方≫初探」『中成薬研究』 1980年、6、7-9頁)もある。
in和剤局方とは – コトバンクhttps://kotobank.jp › word › 和剤局方-154029
和剤局方(読み)わざいきょくほう
日本大百科全書(ニッポニカ)「和剤局方」の解説
和剤局方 わざいきょくほう
中国、宋(そう)代に出版された漢方処方箋(しょほうせん)集。『太平恵民和剤局方』が正名。徽宗(きそう)の時代に、当時各地の薬局で使用されていた局方(処方集)の誤りを訂正するために、陳師文(ちんしぶん)らに校訂を命じ、五巻本として出版された勅撰(ちょくせん)本。さまざまな病状別に用いられる処方を記し、さらに各処方についての細かい使用目標を詳述した実用書で、収載された処方箋は十分に吟味されたものばかりで、宋代以後も大いに利用された。わが国でも鎌倉から室町時代にかけて広く用いられ、多くの医家が利用した。現在、流通している家庭薬のなかにも、本書に記された処方箋を基本とするものが多い。なお現在の薬局方という名称は本書の題名に由来している。
[難波恒雄・御影雅幸]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「和剤局方」の解説
和剤局方 わざいきょくほう Ho-chi-chü-fang 中国宋代の徽宗の勅命によって選ばれた一種の国定処方集。南宋以後しばしば増訂されたために多くの異本があるが,最初の刊本は大観年間 (1107~10) に陳師文,裴完元,陳承らが撰述したものである。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報