世界大百科事典 第2版の解説(12))
(5)ギリシャとローマ:【身体に作用するものは毒と表現】【良いも悪いも皆毒】
ギリシャ神話には魔法の薬や毒の事が屡出て来るが医学が進んでいない時代では身体に生理的な作用するものを指し、今で言う薬も毒も食べ物もすべて含んでいるので実際になにを指していたのかは明確ではない。
英雄時代はくすりを使ったと言う記録は殆ど見当たらない。神々や人々はHomerの英雄達に恐ろしい傷を与えた、しかし治療についての記述が全く見当たらない。医学がまだ開かれていない時代、当然、病の解明が出来ていない。
*アポロは毒矢によってAchaeanの戦場に疾病を送った。神々は犠牲によって慰められた。即ち、犠牲によって、病の流行が下火になったと考えた。このような詭弁による治療がApolloを治療の力を持つ神に祭り上げられているが、“前線に毒を送った”とあるのは、実際はクレオパトラと同じくアルコールや麻薬によって兵士を朦朧とさせて、戦場に送ったと考えられる。
(6)ソクラテス:【ギリシャの哲学者】
ギリシャの大哲学者ソクラテスは毒杯を仰いで死刑に処せられた。しかし、本人はその毒で死ねば復活して永遠の命を神から授かる。と考えていたとも言われている。使った毒は“毒にんじん”で仮死状態から蘇生した例を知っていたのかも知れない。これも毒を実際に使っていた例である。
この頃、毒の作用は徐々に解明されているが、薬は出来上がっていなかった。
(7)アスクレピオス宮殿:【医学が生まれた】
ギリシャでは神話やホメロスの詩より見て、医学の神が他の神々と共に重要な位置を占めるようになった
この頃、病気になって、薬で治すと言う文化は無く。毒に当たって、又は戦って、傷を負い、苦しむ状態しか無かったのではと考えられる。その為、解毒剤へのニーズが高く、解毒剤を持つ者が医術の神として崇められた。これはアスクレピオスの立つ台座に解毒剤の処方が刻まれている事からも覗える。
ギリシャ神話によれば長い間、病気治療師は僧侶であった。医学が始まっていないので、病気になれば神に頼るしかなかった。アスクレピオスとは医術の神で、この宮殿に仕える僧侶をアスクレピアダイと呼ばれていた。
西欧の薬は文化が開けた時から、芥子のように人体への生理活性の強いものが使われ、単に病気を治す事に留まらず、世の中の紛争や戦争の中で使われた可能性が高い。そこには、薬によって病気を治すと言うより社会不安に陥った例が多数残されている、これは当時の医薬の主を担っていたのがアルコールと麻薬であった為と考えられる。この為、先史時代から、薬の管理者が存在していたようである。この頃、薬の管理は僧侶や神官が行なっていたと考えられる。
古代東洋、エジプトやヘレニズム文化では医療は牧師の扱う中で難解なものと位置付け、病気と治療は特別な神に頼っていた。病気は合理的な医療を含みながら、外面的には、お寺で寝ることによって直る、あるいは、魔術の儀式によって直す、というやり方に頼っていた。寺での医療は聖者の荒修行として中世まで残っていた。
(8)ヒポクラテス:【医学の始祖】
医学の父 ヒポクラテス の出現(BC400年):「医学を科学として確立」
病気は神や悪魔の仕業ではないことを説き、それまでの原始的な医学から迷信や呪術を切り離して科学的な医学を発展させた。
1.人体は自然治癒力を持っており、これを助けるのが医術であり、治療の根本である。
2.薬の多量使用、頻繁使用は危険(副作用)である。
3.医師の倫理を重んじた「医師の心得」「ヒポクラテスの誓い」
・苦しんでいる人には、たとえ報酬なしでも治療する。
・患者には最善と思われる治療を行い、害となる治療は決して選択してはならない。
・患者が奴隷であっても差別してはいけない。
・人間愛、医術への愛をもって治療に望めば、回復に向かう患者も多い。
・医に関するか否かに関わらず、他人の生活について知った秘密は口外しない(守秘義務)。
「ヒポクラテスの誓い」 ⇒ 世界医師会「ジュネーブ宣言」(1947年)
[アレクサンドリア時代(BC331~):初めての人体解剖]
・ ヘロフィス:解剖学の祖、十二指腸や前立腺の命名、脈拍、配合剤
身体の4機能: 栄養(胃腸・肝)、保温(心臓)、感覚(神経)、思考(脳)
・ エラシストラトス:大脳・小脳の違いや動脈・静脈・神経の役割を説明、解剖学によって、外科が進歩
⇒ 両医師および門下生によって医学・薬学が進歩
[ローマ大帝国(BC100~)]
・ デオスコリデス*(AD60年):最初の薬学者。 「マテリア・メディカ」(薬物学):科学的な薬学・生薬学、約600種の生薬の写生図、効能効果、用法用量
・ ガレノス (AD150年):「学問としての医学」を確立、彼の医学書は19世紀まで各地の医学校で使われた。
経験主義から抜け出し、症状毎の医学を打ち立てた医学の始祖で、ギリシャ時代で、もっとも有名な医師である。西欧では歴史が始まった頃、医師・牧師・族長・薬採集家・薬売り・王様等、その時の社会の都合で、色々な職業を持った人々が薬を扱った。この風潮は12世紀頃まで続いた。
医薬文明の初めは、薬でなく解毒剤なのである。古代文明を支配した行政のトップは医薬についての知識とそれを利用する技術を身に付けていた事が分かって来た。BC1000年、症状毎に使う物質が違って来て、医療に使われるものが出て来た。又、同じ物質でも量によって、活性の違いがある事が分かって来て、この頃、初めて、薬の概念が芽生えて来た。即ち、単に毒に当たった症状だけでなく、色々な症状に対応し、医術が生まれ。医師と言う職が徐々に明確になって来たのである。
(9)ガレン:【薬の神様】【薬が生まれた】
ガレンの業績はヒポクラテスが祈祷の中に医術を入れた医学の祖と言えるに対し、医療の中で薬と毒の使い分けを明確に示した。ガレンは毒を上手に使うと薬になるとして数多くの処方及びその使い方を残している。彼こそ「西欧医薬の元祖(薬の神様)」と言える。ガレンはそれまでの生薬を飲み易く、使い易くする為に、製剤の方法を考え、処方と共に、製剤の方法を記している。また、薬の使い方を記している。
*ガレヌス製剤:ガレンの残した処方は現代に至るまで「ガレヌス製剤」と称され医薬品・売薬として使われてきた。ガレンは医師であるが薬を使って病気を治す。薬の使い方はこのようにすると言うことを世の中で初めて、見つけ出し、人々に治療を実施し、その実際を多数の本に書き残した。「病気を治すのは薬、身体を大きくするのを食品」と言う。ガレヌスは多数の処方を残しているがやはり医学が未発達である為、処方の対象になるのは解毒剤が多かった。そして、人々はその後2000年に亘って医薬についての影響をガレヌスから受けてきた事になる。したがって、彼こそ医薬文化に影響を与えた薬の神と言える。即ち、今の「薬剤師の祖」と言える。
*ペダニウス・ディオスコリデスΠεδάνιος Διοσκορίδης 出典: フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)(13)
ペダニウス・ディオスコリデス、ペダニウス・ディオスクリデス(古希: Πεδάνιος Διοσκορίδης40年頃 – 90年)は古代ギリシアの医者、薬理学者、植物学者である。薬理学と薬草学の父と言われる。小アジアのキリキアのアナザルブス(Anazarbus)の出身で、ローマ皇帝ネロの治世下の古代ローマで活動した。
ギリシア・ローマ世界の至るところで産する薬物を求めて、おそらく軍医として方々を旅する機会があり、その経験を活かして本草書『薬物誌』(『ギリシア本草』とも)をまとめた。ディオスコリデス自身が「理論より事実を、書物より自分の観察を重視して編集した」と記している通り、非常に明快で実用的な本草書であり、ガレノス医学と並び、1,500年以上の長きにわたり西洋の薬学・医学の基本文献だった。明治薬科大学の大槻真一郎は、『薬物誌』を中国医学最高の本草書と比し、「西洋本草綱目」と呼んでいる[5]。
薬剤[編集] :アラビア語訳『薬物誌』より、クミンとディル (ca. 1334) , 大英博物館蔵(14)
参考:ユナニ医学 出典: フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)(15)
アラビア医学を代表する医師イブン・スィーナーは、古代ローマの医師ディオスコリデスの本草書『薬物誌』を基に『医学典範』の薬物に関する巻を著し、約811種の生薬が収録された。ユナニ医学の薬物学は、ギリシャ・ローマの薬物学を受け継いで発展し、インド医学の薬物も多く取り入れている。アラビアの薬物書に載せられた薬物は、初めは数百種類であったが、最も充実していると言われるイブン・アルバイタール(1188-1248)の本草書には、2,324の生薬が記載されている。ユナニ医学で使われる生薬の80%は植物性であり、動物性・鉱物性の生薬もある。生薬は単体で用いられる単純薬剤(Mufradat)と、ガレノス製剤と同様に、数種の生薬を混ぜた複合薬剤(Murakkabat)がある。
イブン・ズフル(en:Avenzoar, 1091-1162頃)は、薬の調剤は医師ではなく薬剤師が行うべきだと考え、アラブ世界で一般的だった医薬分業を強調した。12世紀のアラビア世界では、調剤業務に関する規則が定められ、薬局の監督官が置かれるなど、薬局制度の基礎が確立された。医学と薬学の法律上の地位を同等とする考えが広まり、薬学の研究が進んだ。
生薬製剤としては、錠剤、トローチ剤、麝香入り製剤、丸剤、ミロバラン練り薬、消化剤、健胃剤、バラやスミレの保存剤、点眼剤、カルシウムコーティング剤、練り薬の一種、口中で徐々に溶解させる練り薬、蜂蜜入り練り薬、軟膏剤、興奮剤、保存剤、解毒剤、水薬、座薬、歯磨きなどがある。また、錬金術の発達で蒸留などの化学技術も進んだため、精油や芳香蒸留水が作られ治療に利用された。
薬の性質は、その薬が身体の気質に及ぼす作用によって決められ、患者に投与された時の反応から判断された。「緩和性、熱性、寒性、湿性、乾性、これらの増強型である強熱性、強寒性、混合型である熱乾性、寒乾性」の9種に分けられている。
緩和性の薬剤を除いた「熱、寒、湿、乾、強熱、強寒、熱乾、寒乾」の性質のものは、体の状況や性質に影響を与える。緩和性を除いた8種類の性質は、強さによって4度に分けられる。
第1度:効果が感じられない程度におだやかで、副作用はない。カモミール(熱性第1度)、スペインカンゾウ(乾性第1度)、スミミザクラ(湿性第1度)、ニオイスミレ(寒性第1度)など。
第2度:効果が体で感じられる程度にあり、副作用はない。サフラン(熱性第2度)、ショウガ(乾性第2度)、ヨザキスイレン(湿性第2度)、レタス(寒性第2度)など。
第3度:第2度より強い効果があり、副作用があっても致死的ではない。カミメボウキ(熱性第3度)、スベリヒユ(寒性第3度)、ブラッククミン(乾性第3度)、ダイダイ(湿性第3度)など。
第4度:第3度より強い効果があり、有毒なものもある。ニンニク(熱性第4度)、ケシ(寒性第4度)、ホオズキ(寒性第4度)、チョウセンアサガオ(乾性第4度)など。
このような生薬の性質の分類は、アラビア世界以外でも、中世ヨーロッパの養生書、近世ヨーロッパの本草書で見られ、現在の欧米のハーブ療法でも一部で利用されている。
(10)テリアカ:【解毒剤】
古代文明の時代は健康か病気かと言う医学ではなく生きているか死んでいるのか、即ち、使われる物質も強烈な生理作用を持って居る物が使われた。この頃 病気と言う表現が無く、毒に当たった状態が今で言う病気と考える。したがって、解毒剤とは薬に相当する。文明が開かれて、5000年の間、人々は毒の恐怖を感じていたのかローマの皇帝はみんな解毒剤を作る専属の医師を雇用していた。
毒と有効な解毒剤や医薬品を手にした医師は“医師”と言う職業に留まらず。軍隊の長又は軍医となって各地に遠征している記録がある。皇帝ネロは医師ニカンドロスに命じて、テリアカと称する解毒剤を作らせた。これは非常に有名になって、かなり長い間使われた。ニカンドロスは軍隊を率いてスペインまで遠征している。
この為、解毒剤の処方テリアカは一般の人にも知られるようになり、毒と薬を施政者が使っている事が分かって来た。したがって、人々は医師が薬を持った時、病人を治すに留まらず政治や戦争に口を挟むと言う事を感じていた。古代戦場には必ず薬が登場する。
参考資料
- 林 信一(元神戸薬科大学教授)、Personal information
(1)-1清水藤太郎 :「日本薬学史」南山堂 1949
(1)-2 A history of Drugs:Dr.phil.Alfons Lutz 1971
(1)-3 History of Pharmacy:Kremers & Urdang`s
(1)-4米田 該典 :「薬業の今昔」 1982
(1)-5山崎 幹夫 :「薬の話」中公新書 1991
(1)-6松井 寿一 :「薬の文化誌」丸善ライブラリー 1991
(1)-7林 信一 :「大阪の薬文化」阪大出版会 2002
(2) 2017年9月度 第 101 回 薬の歴史 古代から現代まで(西洋編)
スライド 1 www.seimei-hp.jp › _src › hitorigoto101 PDF
(3)薬学の歴史 – 日本薬学会 www.pharm.or.jp › shosasshi › pdf
(4)メソポタミア文明-世界史の窓 www.y-history.net › appendix